20200329
ミシェル・フーコー「快楽の用法と自己の技法」読了
『英語学入門』ちょっと読んだ
・今日は終始イライラしていた。普段調理中は何も考えてないのに今日は焼きそばの麺のほぐれなさ具合にすら不愉快になった。
・塩胡椒振った豚肉に火が通ってきたときの匂いが大好き。ぶた、らぶ。
・フーコーの論文は、確認してないけど、概ねそのまま『快楽の活用』に載ってる序文と同じような気がする。そちらを読めば良かった。いずれ『快楽の活用』を読み終えた後に再読する。
・英語学入門をちびちび読み進めてるけどすごく精神に良い。読めばわかるし、好奇心以外の情が動かない。例えばウエルベックなどを読んでいると面白すぎて疲弊するのだが、他にも今読んでいるのだと『物語 中東の歴史』もけっこう顔が上がる読み方しかできないのだが、これは素直に読み進められる。数学の問題を解いているかのような。
以下のネット記事を読んだ。
http://web.kawade.co.jp/bungei/3455/
https://1000ya.isis.ne.jp/1737.html
松岡は昔『多読術』のみ読んであとは千夜千冊をチラチラ読んでいた程度だけど、またサイトを読み返そうかと思うくらいには興味深く読んだ。ヘーゲル『精神現象学』のページを読んでいるとマルクスもシェリングもコジェーヴも読みたくなってきたので、千夜千冊を読まなくなったのはそういうところにもあるのかもしれない。自分はウェブサイトの記事を精読できないのだが (じっくり読むなら紙の方が好き)、このサイトからは自分に処理できないレベルで影響を受けてしまう。
20200328
「快楽の用法と自己の技法」半分読んだ
『英語学入門』ほんのちょっと読んだ
ビジネス英語講座一個
今日は仕事で体力を使い切った感がある
・YouTubeで無観客ライブを観た。満足。無観客というより、遠隔と言うべきか。
・今更ながら後期フーコーの問題意識がすごく自分に刺さる。権力の分析より好きかもしれない。
・最近、一周回ってフロイトを読みたい欲が強い。断片的にしか読んでいないのだけど、誰か一人の著作をじっくり腰を据えて読もうとするなら、今の気分だったらフロイトを選ぶかもしれない。フーコーの「欲望的人間」という言葉、これこそ自分がどこまでも探究したい対象なのかもしれない。だが、その道具立てがとりあえずフロイトとフーコーだなんて。
・日本に留学しに来た人に「日本へようこそ」と言える日本人が奇妙に思えた。確かに日本人だし、その意味で「自分の国」なんだけれど、私には言えない。ついでに言えばWelcome to Japan. と言うことはできるかもしれないけど、日本へようこそとはどうも言えない。言いたくない。何なのだろう、これは。
20200327
『アーサー王ロマンス』ちょっと読んだ
『物語 中東の歴史』ちょっと読んだ
『英語学入門』ちょっと読んだ
スペイン語入門講座ひとつ
「欲望の時代の哲学 2020」二話みた
・昨日に続いてマルクス・ガブリエルの番組。
彼は現代アメリカの問題点を探る。アメリカで起こっていることの半分はテレビの中の出来事のようなものであり、つまりは現実とファンタジーの融合が問題なのである。
・我々の欲望は人工的なものである、とガブリエルは言う。社会状況やマーケティングによって我々は消費へと駆り立てられている。その中において我々は根源的に自由であるのだが、GoogleやFacebookはまさにその点を突いて我々を利用しているのだ。
・哲学が望むことは、我々が自由になり、自由に行動すること。この点を認識したとき、哲学が有益なツールとして機能するというのがガブリエルのいつもの主張。これは、現代の資本主義社会が望まないことでもある。かくして、本エピソードのキーワードは、「自由意志」。
・第三話は全然ピンとこなかったが、子どもに知識を詰め込んで就職のために最適化しようと試みている学校は、まさに技術的に人間を捉えていて (人材)、そのような問題点はハイデガーが正しく予見していたものだというマスビアウの指摘は興味深い。講談社学術文庫の『技術とは何だろうか』が読みたくなった。そのうち買う。
・さて、番組という枠の特性上、本作は実にインスタントだ。動きのある編集の中で、ガブリエルが自分の考えをわかりやすく伝え、街中で通行人を捕まえては一問一答やそれっぽい雑談をし、ユーモラスな笑顔で別れ、訪問先で会う識者とインテリぶったおはなしに花を咲かせる。当然時間に限りのある番組なので、議論というよりはチャットの積み重ねにすぎず、ガブリエルもおはなし相手を批判することなく "That's a great insight." などと相槌を打って爽やかな笑顔を見せる。これこそ資本に毒された、哲学めいたもののウィンドウショッピングではないのだろうか。彼は「新時代の哲学をわかりやすく伝える哲学者」としての自己像の一面をどのように捉えているのだろうか。
20200326
『献灯使』ちょっと読んだ
『アーサー王ロマンス』ちょっと読んだ
『マロウン死す』ちょっと読んだ
『英文法の「なぜ」』ちょっと読んだ
マルクス・ガブリエル「欲望の時代の哲学2020」を一話みた
スペイン語入門講座ひとつ
・『献灯使』の中で、小さな男の子の無名が次のように言う。
「レモンは目の前が青くなるくらい酸っぱいね。」
この言葉を聞いてから、保護者役の義郎は「レモンの黄色を見ると、そこに青色が混ざっているように感じる。すると一瞬、ナマの地球に触れたような気がするのである。」(p. 56)
・ディストピア的な近未来日本の暦において、インターネットがなくなった日を祝う「御婦裸淫の日」なんてものがある (p. 55)。なんかえっちな響き。
本作はこういう言葉遊びに溢れているのだが、私は全然ノれない。「わー、おふらいん、おもしろーいなんかえっちー」くらいにしか思えない。短歌や俳句や詩にのめり込めないのも、ラップの良さが欠片もわからないのも、キャロルの作品がそんなに好きになれなかったのも、数式に魂の内から美しさを感じられないのも、こういうセンスの無さに由来するのかもしれない。
・それはさておき、先の引用で無名がレモンの酸味に「青」を感じ取った。義郎があえてこの発言に影響を受けているのは、彼がレモンから黄色という色彩イメージしか感じ取っていなかったからだろう。レモンは黄色。言ってみればそういう文化的構造から彼を解き放って「ナマの地球」を感知させるのが、無名の子どもならではの感受性と言葉であって、読者も一瞬であっても「ナマ」を感じ取れたのなら、それは言葉の力、多和田の詩的センスのなせる技であるわけで、そうあってみれば本作は言葉の力に信を置いているということになる。そもそも優れた詩とはそういうものであって、してみればこの箇所は言葉の異化作用を上手く描いたものと言える。
すてきだけど、私はノれなかった。半分くらいしか読んでないけれど、まだ私はこの作品にピンときていない。
・ガブリエルの番組。マンハッタンを歩くインテリイケメン、映えてる。
現代の哲学や科学、テクノロジー、経済が、人間の自由に影響を及ぼした結果、人間は欲望の奴隷と化したと彼は言う。
この問題意識は、私にもすごく良くわかる。しかし、ここで奴隷という表現を用いるがゆえに、ガブリエルの思索は自由へと向かう。現代社会に縛られない思想を可能にするのが哲学だ、と。だが、現代の内にありながら自由とは何かを検討し、可能なら現代の内にありながらそれを実現する、その可能性は私には見えない。わからない。
時代と格闘する哲学者、番組はガブリエルをそう呼ぶ。しかし、彼が番組でしばしば一般市民らしき者を相手に哲学一問一答をやっているのだが、そこでの彼の答えに何らのパワーも感じない。結局は自分の認識の有り様が重要なわけだが、それならショーペンハウエルで良い気がする。わからない。いずれにせよ、自分の認識の如何によって自由であったり自由でなかったりする、そんな結論が待っているのだとしたら私は彼を信用しないだろう。
・SNSは自由意志や民主主義を損なう。このガブリエルの指摘の展開が楽しみ。SNSと欲望について語られるのだろうが、ルネ・ジラールでも言及されるのだろうか。